台湾を知る上で切っては切り離せない歴史とはなんでしょうか。
それは二二八事件や白色テロです。
二二八事件とは、1947年に起こった中国大陸から来た人々と元々住んでいた台湾人との大規模な抗争のこと。
この事件中に、白色テロと呼ばれる恐怖政治によって多くの台湾人が投獄・処刑されました。
このことは長年タブーにされておきており、90年代になって民主化された後から徐々に明るみになってきました。
家族を突然連行されて殺された人、十数年も政治犯として拘留された人、社会的に抹殺された人など犠牲者は多いものの長い間口を閉ざしてきたのです。
残る白色テロ時代の遺産
台湾の学校教育でもこの白色テロ時代については、教育を受けた年代によっては詳しく取り扱われておらず、あまり知られていない時代となっています。
経済成長した華やかしい台北の街に行ってもこの時代を感じることは難しいです。
ですが、当時の爪痕はよく探せばあるのです。
台北の郊外の新店に白色テロ時代に政治犯として捉えられた人達の収容所が今も残っています。
元政治犯収容所の景美人権博物館
景美人権博物館(景美人權文化園區)は台北の郊外の大坪林駅から歩いて20分ほど。
※現在の名称は「白色恐怖景美紀念園區」。
真新しい建物に入ると受付があり、そこでは音声ガイド(日本語版あり)が借りられます。
今回はアポをとり、郭振純さん(92)から案内していただくことができました。
郭さんは政治犯として22年もの間この景美や緑島の監獄に収容されていました。
※郭さんは2018年6月16日にお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。
収容所の建物内に入る
このコンクリートでできた重苦しい建物がかつての収容所です。
建物の中に入ると運動場がありました。
展示室にて残虐な拷問の様子を目にする
かつての収容所の様子の絵が展示室に展示されていました。
白色テロの時代は、反体制派とみられた多くの人達が捕らえられ、拷問・投獄・処刑されました。
政治犯として捉えられた人が死刑判決を受け、死刑場へ向かうところ。
天井につるされ、鞭で血が出るまで叩かれ拷問された様子。絵には「人権、人の道はどこにあるだろうか」と書かれている。
蟻に噛まれる拷問。郭さんが受けた拷問を絵にしたもの。蟻に噛まれると、蟻がもつ蟻酸によって激しい痛みに襲われるという。
郭さんが一枚の写真を見せてくれました。
首に札をかけられた女性がほほえんでいます。
これから死刑にされるというのに、彼女は笑っていた。
なぜか?
それは「こんなやつら(国民党)には負けないぞ」という思いがあったからという。
笑って死刑台に向かった人は彼女だけではありません。
彼らには自負があったんですね。
負けないぞという。
腐敗し、法も守らない当時の政府に対して、彼らは気持ちでは負けていなかった。
こういう話を聞いて、台湾人の気高さ、気概、強さを感じました。
宿舎の中は猛烈な臭いと熱気だった
捕らえられた人々の収容所はこの景美人権博物館以外にもありました。
建物が足りず倉庫を改造し収容されました。写真を見て分かるとおり、かなり過密な状態で全員が横になって寝ることもできません。
一年の半分が夏の台湾。夏場は猛烈な暑さだったといいます。真ん中にある毛布は扇風機代わり。人が交代で代わる代わる仰ぎます。
人々が暮らしていた宿舎のほうに向かいます。
「ここを見てご覧」と郭さん。
宿舎に向かう扉には小さな扉がついていました。
かつては収容者は大きな扉を通ることができず、ここをくぐらされたといいます。
「収容者を人として扱っていないんだ」と郭さん。
腰を屈めないと入れないということは、屈めることなく通れる監守との差を表しており、人間扱いをしていないということです。
建物内の廊下
この部屋は風通しが悪く、高温多湿で夏には蒸し風呂になる。汗臭くて匂いも酷かったそう。
部屋の中にある暑さ対策の扇風機としての毛布は、看守にバレないよう昼間は布団の中に隠していたそう。
夜看守が見回りに来たら見つかるのではと郭さんに聞くと、「臭すぎて夜は看守も近づかないよ」とのこと。夜は毛布で風を起こすことができたようです。
展示室にあった宿舎での様子。多いときは六坪もの部屋に二十数人も収容された。
今回行ったときは4月で肌寒い日でした。窓が高い位置にあるので風は全く入ってきませんでした。
かつてこの部屋に20人もの人がいて、すごい臭いだったとは思えません。
トイレの水で食器洗い・洗濯をする
部屋に一つあるむき出しの和式便所。他に水が出る場所はありません。
どうやって食器洗いや洗濯、シャワーをしたのでしょう。
なんと、すべてこのトイレで済ませていたのです。
お椀で穴をふさぎ、水をためる。
貯まった水で食器を洗い、服を洗い、濡れた布で身体を拭く。
左に蛇口がありますが、郭さんがいた当時はありませんでした。
にわかには信じがたい話なのですが、体験した郭さんから聞く開いた口がふさがりません。
新聞でマットレス兼机をつくる
こちらの机は大切な小道具でした。新聞を米の糊でくっつけて作ったものです。手作りの段ボールですね。
20数人もの人がこの部屋で寝るには、一人が横になって寝る面積はこのマットレス程度。足と頭を交互にしながらでないと寝られなかったそうです。
部屋の中でお湯浴びや洗濯をすると、部屋の中の3分の1はびしょ濡れになり座ることができません。風で乾かした後に、このマットレスを轢いて寝たのでした。
寝るときはマットレス、起きているときは文机や将棋の台にもなる。この収容所生活でマットレスは必需品だったのです。
部屋が狭いので、トイレの脇でも寝ざるをえませんでした。
面会室にて
面会室も当時のまま残されています。
購買コーナー
医務室。収容者には当時の知的エリート層が多かったため、もちろん医者もいました。医者であった収容者がここでも医師を勤めたそう。
医者に対しては監視の目が緩くなり、ときどき家に戻ることもできたとか。
捕まっているはずなのに、子どもが4人もできた医者もいたと郭さんは教えてくれました。
看守室。右側の壁に掛けられている手錠や足かせが生々しい。
形だけの裁判所
法の下の裁判は行われず、形だけの裁判が行われたそうです。
過去から今を考える
人権博物館で衝撃だったのがトイレのくだりですね。トイレの水で皿を洗い、服を洗いって…。
拷問についての資料も、見ていて目を覆いたくなるものがありました。
部屋の中に水平に張られた縄に下半身裸の女性がまたがっている絵。局部が縄にあたります。拷問で血が出るまで縄を往復させられたそう。ありえない…。ありえない…。なんてことを…。
郭さんは爪をはがされる拷問を受けたといいます。ぼこぼこに殴られて帰らぬ人となった人も大勢います。
常識的に考えてもそれはないだろう…ということが起こっていたんですね。常識が通用しない。
この過去の経験を私たちはどう活かすべきでしょうか。
常識がいかに危ういことが分かります。常識は時代や政府、文化によっても異なる。
どんなに頭がおかしくてもこんなことはしないだろう…そう思っても相手は容赦ない。
突然家族が消える。どんなことにも賄賂が要求される。
台湾は言語統制が敷かれ、政府の悪口を言ったら捕まる。これまで全く話されていなかった中国語が強制され、それまで公の場で使われていた日本語や土着の言葉は禁止された。
日本が高度経済成長を迎えていた一方で、台湾の人々はこうした白色テロと言われる時代を生きていたのです。
そうして90年代に入って民主化を迎え、経済成長しITの国として今の台湾があります。
2017年11月末に国家人権博物館組織法が可決しました。
過去の事実に向き合う時期がきたんですね。景美の博物館だけでなく緑島も博物館として整備が進んでいきます。
台湾がこれからあの時代をどう評価していくのか興味深いです。
(訪問日2017年4月)
景美人権博物館への行き方
景美人権博物館へは台北駅から古亭駅で乗り換えて大坪林駅で降ります。
名前は景美人権博物館ですが、降りる駅はお隣の景美駅ではなく大坪林駅です。
大坪林駅からは歩くと20分弱、タクシーだと10分ほどで着きます。以前乗ったときタクシーの料金は120元ほどでした。
夏だと歩くのはきついのでタクシーに乗ったほうがよいと思います。
Information
『白色恐怖景美紀念園區』
開館時間 9時~17時(毎週月曜休み)
入場料 無料
ホームページ https://www.nhrm.gov.tw/
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