台湾二二八事件と中央大学~虐殺に遭った卒業生達~

01.台湾の歴史を知る

こんにちは、小山です。

突然ですが私の母校は東京にある中央大学です。

台湾に来てから、中央大学と台湾には思いがけない“繋がり”があることを知りました。

台湾の首都・台北駅の近くに二二八紀念館という小さな博物館があります。

そこに、中央大学の学生帽が飾られていました。

なぜここに中央大学の学生帽が…?

今回はこの謎を解いていきます。

二二八事件とは

学生帽が飾られているのは二二八和平公園の二二八紀念館。

この公園は二二八事件と大きく関係しています。

二二八事件とは、第二次世界大戦後の1947年に起きた台湾の歴史上大変重要な事件です。

台湾は1895年から1945年まで日本の植民地であったのですが、日本が戦争に敗れた後は大陸から国民党が台湾にやってきました。

当初は歓迎した民衆でしたが、その国民党の政治がもう…ひどい有様だったというのです。

前代未聞の政治汚職が続発、物価は高騰、工場の操業回復にはめどが立たず、帰台の青壮年層も生活の糧を失います。物資の投機的買い占めによって暴利を貪る商人、貿易局や専売局は物資を横流し、汚職がはびこり、軍や警察等法を守るべき人間が規律を破り、暴力を濫用する事件が頻発します。(国立台湾歴史博物館 私たちの二二八特別展の解説文より)

日本統治時代と国民党の統治を比較して「犬が去って豚が来た」とも言われました。日本人はうるさくても番犬にはなったが、豚はただ餌をむさぼり食うだけで役に立たないという意味です。

民衆の国民党の政治への不満は高まり、あることをきっかけに爆発します。

闇たばこ売りの女性に対する警察官の暴力がきっかけに抗議デモが

228 by Li Jun.jpg

黃榮燦による228事件を描いた版画。by wikipedia

1947年2月27日、闇たばこを売っていた女性に対し、取り締まりをしていた警察官が暴力をふるいました。さらに、騒ぎ出した市民に対して警察側が発砲し青年1人が死亡しました。

翌2月28日に市民による抗議デモが行われましたが、そこで憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなりました。

民衆は台北放送局(現在の二二八記念館)を占拠し、闇たばこの不正な取り締まりを全国に向けて放送しました。

軍艦マーチが流れ、日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」と呼びかけたといいます。そうして台湾全体に「中国人(戦後大陸から来た人々)を追い出せ」というデモの動きは広がったのでした。

デモに参加した人々が次々と捉えられ、逮捕・投獄・拷問に

国民党も黙って見てはいません。中国から大量の援軍が送られてきて、反撃を開始しました。

軍隊、警察は様々な理由で弁護士、医師、参議員、記者等当時の台湾社会のエリートたちを次々と逮捕・投獄・拷問、殺害しました。

死亡者は推定1万8千~2万8千人とされています(他に800~10万人と諸説あり)。

白色恐怖時代(不当逮捕や言論統制)は40年続いた

国民党政権は戦後間もない1947年の二二八事件発生後、戒厳令を発令。1987年に解除されるまで、国民党政権による市民らへの不当逮捕や言論弾圧(白色テロ)は40年も続きました。

言論統制や憲兵らによる厳しい取り締まりが行われ、多くの市民が投獄、処刑されたのです。

弁護士などで活躍していた中央大学卒業生も被害に

日本統治時代に中央大学で学んだ後、台湾に戻った卒業生は300人と言われ、台湾各分野で活躍していました。そして起こった白色テロ。

日本から台湾に戻った学生の中で虐殺された人々は100人以上*にのぼり、その中に中央大学の卒業生もいました。10人以上の人が殺されたといいます。

*二二八事件紀念基金會の調べ

学生帽の持ち主は林連宗さん(台湾彰化市出身)。

1925年に中央大学法学部で学び、在学中に高等文官試験法科(司法試験)に合格。台湾に戻り、弁護士事務所開業。二二八事件が起きた後に、処理のために台北に出張。

その後台中の自宅に帰ろうとするも混乱で列車が止まっていたため、友人宅へ。同じく中央大学法学部出身の李瑞漢とその弟李瑞峰と夕食を食べていたところ、国民党軍の憲兵数人がやってきて、3人全員を連行。それ以降、消息不明となった。43歳だった。

戦前、多くの台湾青年が日本に留学していた

当時の知識人には日本に留学していた医者や弁護士が多くいました(当時は同じ国なので留学とは言いませんでしたが)。

前台湾総統の李登輝さんも京都大学の出身者です。

中央大学だけでなく、東京大学や早稲田大学、日本大学などに台湾人学生はいました。

日本の教育を受け、日本語を話し、日本の大学に行ったかれらは日本の青年達とほぼ変わりはありません。(少し語弊があるかもしれませんが)

そんな彼らが台湾に帰ってきて祖国をよくしようと奮闘していたときに、多くの人々が連行され、虐殺されたのです。

まとめ

この二二八事件と白色テロは長い間タブーとされてきました。

戒厳令がしかれた中では、自由に話もできなかったのです。

白色テロで家族を失った人々も多くいます。

前触れもなく突然家族が姿を消し、どうなったのか分からないという状況。

なぜ消えたのか、どこに行ったのか、生きているのかも分からない。

家族の苦しみは筆舌に尽くしがたいものがあったでしょう。

二二八事件が収束した後も、知識人に対しての弾圧は続きました。

台湾は先進国の一部として見られていますが、台湾の民主化は90年代に始まったばかりです。

台湾の負の歴史はまだ解決されていません。

 

【参考記事:二二八事件と中央大学について】

「悲情城市」の証言-台湾228事件と中大卒業生

総長・学長 酒井正三郎が「台湾二二八事件」70周年紀念式典に出席・登壇し哀悼の意を表しました

【台湾にいる中央大学の先輩】

「戦後72年目の卒業証書」-2月27日台湾にて授与-

【二二八事件を分かりやすく解説したアニメ(日本語字幕あり。字幕設定をオンにすると見れます)】


【二二八事件を扱った映画】

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