3月の終わり。昼間は上着がなくても過ごせるくらいの陽気だった。
電車に乗るとなぜか冷房が効いていた。
今回行く場所は台北に住んでいても、なかなか行かない場所。
40分も電車に乗っているうちに冷房ですっかり身体が冷えてしまった。
着いた先は台北郊外の「迴龍」。
MRTの終点駅であるこの迴龍に、かつてハンセン病患者を強制隔離した施設があったのだ。
陸の孤島にある「楽生院」
「楽生療養院」はまだ日本の統治下にあった1930年(昭和5年)に設立されました。
日本では明治時代の1907年(明治40年)にハンセン病に関する最初の法律が立法され、さらに1931年(昭和6年)に「癩予防法」が制定され、全ての患者を強制収容・隔離する政策が行われました。
植民地である台湾でも同様の政策がとられました。
今でこそ周りは住宅地ですが、この楽生療養院ができた頃は周りに住んでいる人はほとんどいなかったといいます。
まさに『陸の孤島』。
高台にあって今でも平地からは距離を感じる場所です。なぜこんな場所に施設を建てたのか…。
実はあえて人里離れた場所に作ったのです。
他の人と隔離するということと、ハンセン病患者の人たちだけで穏やかに暮らすという二つの意図があったようです。
日本でも多磨全生園のように市街地から離れた場所や岡山の長島愛生園、香川県の大島青松園などの島に作られています。
ハンセン病とは
ハンセン病とは、らい菌(Mycobacterium leprae)が主に皮膚と神経を侵す慢性の感染症です。
感染力は弱いもので、ほとんどの人は自然の免疫があります。
以前岡山の長島愛生園で学芸員の方が言っていたのは、
戦争や戦後の食糧難で栄養不足になり免疫力がなくなってハンセン病になる人が多かったということでした。
ハンセン病とは | 日本財団
しかし、まだ治療法が確立していなかった時代では、患者の人たちは強制隔離されたのでした。
昭和28年(1953年)の「癩予防法(らいよぼうほう)」により、ハンセン療養所に一度入ると一生外に出ることができなくなりました。家族と一生離れ離れになる人も多くいました。
台湾では日本統治時代が終わった後に、国民党によって接収されましたが、ハンセン病の人たちへの強制隔離政策は続けられました。
現在療養所に住んでいるのは、完治した方々
楽生院の平屋建ての施設では10数名の方が暮らしています。みな80歳以上の高齢者です。
現在暮らしている方々はハンセン病の治療は終わっていて、感染する恐れはありません。
治ったけれども、身体に障害が残った方が住んでいる施設なのです。
日本にあるハンセン病療養所との違い
施設を歩いてみると日本と台湾の療養所でいくつか違う点があることに気がつきました。
音の目印がない
ハンセン病の病が進むと、運動神経の麻痺によって瞬きができなくなり失明してしまう場合があります。
目が見えなくても道が分かるように、日本のハンセン病療養施設では曲がり角に音の出る機械やラジオが置いてあったりしたのですが、現在の楽生院にはありませんでした。
弱視の人でも道が分かりやすいように白線が書いてある場合もありますが、ここにはありませんでした。
手すりが少ない
誤って道から外れないように手すり各所に整備されているイメージがありましたが、一部に手すりがあるだけで全体を網羅しているという雰囲気ではありませんでした。
共通点:電動車椅子をみんな活用している
ここで目立ったのは、電動車椅子です。
家々に電動車椅子が置かれていました。坂道が多いこの楽生院では不可欠でしょう。高齢や障害で体が動かしにくくなっても、電動車椅子があれば制限が少なくなりますね。
坂道が多いことは確かなのですが、家や施設を見ても車椅子の障害になりそうな段差は少なかったです。
見晴らしが一番良いところへ
この楽生院で50年以上暮らしているおばあさん(アマー)を紹介してもらい、ご厚意で案内していただくことができました。
きつい坂道も電動車椅子があればすいすい行けます。
坂道を登った先は、納骨堂。
納骨堂は楽生院の中でも一番見晴らしがよい場所に建てられていました。
ここで亡くなった人たちの位牌が納められています。
位牌に書いてある名前は本名かどうか聞くと、アマーはみな本名だと言いました。
日本では家族への差別を恐れ、療養所内でも仮名で過ごし亡くなって行くかたもいるので、この点は少し違うなと思いました。
位牌には出身地も書かれていました。
台湾出身の人は出身の市が書いてありますが、外省人も多かったのか四川や浙江などの中国の省が書かれているものもありました。
日本統治時代に建てられた建物も残っている
1930年に建てられた施設ということで、一部はその当時の建物が残っています。
今回は警備員の方の許可をとり中に入ることができました(通常は鍵が掛かっています)。
取り壊しへの大きな反対運動があった
楽生院に行ってから知ったのですが、この楽生院は一度、全棟取り壊しの危機に遭っていました。
現在のMRT「迴龍」駅と車両基地建設の為に、立ち退きを迫られたのです。
ずっと暮らしていた場所を、いきなり立ち退けと命じられる。政府は入居者たちの声を聞こうとはしませんでした。
当時の記録を見るとかなり激しい抵抗が行われていたようです。
反対運動では、取り壊しを巡って居住者や応援する学生たちが座り込みをし、警察が出動しました。
反対運動の後、結局多くの施設が取り壊され、隣に新しい8階建ての高層の建物ができました。
入居者の人々も多くが医療設備が整った新しい棟に引っ越して行きました。
そして最後まで抵抗していた一部の人たちが、現在も古いほうの平屋建ての施設に暮らしています。
現在残っている建物は、この時の取り壊しを免れたものだったんですね。
正直なところ、取り壊しを巡っての戦いの跡は現在の楽生院には見当たりません。
残った人々がひっそりと暮らしているだけでした。
茶目っ気がありパワー溢れるアマー
今回案内をしてくれたアマー(86歳)は、21歳の頃に療養所に来たという人でした。
足をよく怪我すると思っていたら、その症状がちょうど楽生院から治療を終えて帰って来た人のものと似ていたから、ちょっと診てもらおうと思って来たのだそうです。治療したらすぐ家に戻れると思っていたら、そしたらそのまま86歳だよ、と。
とても元気で、おしゃべりの大好きなアマー。
アマーがどんな人生を送って来たのか、想像するしかありませんが決して楽な人生ではなかったはず。
でもとても素敵な笑顔で周りを明るく照らすような人なのです。
長いおしゃべりの後、最後にはなんと長い坂道を電気車椅子で一緒に下って駅まで見送ってくれました。
昔は駅のすぐ横のここまで職員の宿舎だったと言います。大きな敷地だったことが分かります。
療養所の敷地内に植えられていた椰子の木はMRTの工場施設の中に植えかえられていました。
戦いの末に守りたかったものとは
なぜ彼らは取り壊しを拒否したのでしょう?
元々は強制的に連れてこられた場所。
それなのに、なぜいたいと思うのか?激しい戦いをしてまでの残ろうとしたのか?
ここで、もう少し考えないといけないことに気がつきました。
「療養所に暮らす人々」をここに「閉じ込められた人」などと思うのは、こちらの勝手な思いこみなのです。
彼らにとっては、ここが唯一の家なのです。
家族がいて、住む家があって、友人がいて、病院もすぐ近くにあって。
最初は強制的に連れてこられた場所だったかもしれない。
けれど長く住むうちに彼らの居場所になった。
彼らにとっての本当の家だからこそ、必死にここを守ろうとしたのだろうと、気づいたのでした。
(2019年3月29日訪問)
<参考>
パンフレット「ハンセン病の向こう側(厚生労働省)」
台湾文化部HP 楽生療養院 https://jp.moc.gov.tw/information_115_78375.html