花蓮で未知なる日式建築を探す旅へ

02.マニアック紀行

今回、台湾日式建築紀行の著者である渡邉義孝さんの花蓮旅行に通訳として同行させていただけることになった。

これはその花蓮旅の記録である。

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旅の始まり

花蓮駅で出迎えてくれたのはクバラン族のUtayさん(クバラン語でutay・umus)。アフリカの伝統服風の鮮やかなオレンジ色の服がよく似合っている。

渡邉さんも集合して、旅の始まりだ!

右上のトタンや下のレンガ部分は増築部分

花芸協会の事務所として使われている日式建築

おそらく日式建築で、壁を後からコンクリで塗り固めたもの  

Utayさん、花蓮市内の日式住宅がどこにあるのか詳しくご存知で、道路を走りながらここにもあるよと教えてくれる。花蓮にはまだ多くには知られていない建物がたくさんある。

そして「これはすごい!」と歓喜の声の渡邉さん。

渡邉さんが丁寧になにがすごいのか説明をしてくださるのだが、ちんぷんかんぷんな私(笑)
トラスと防水のための板金処理(板の接続部分が鉄で繋がれている)と板が腐るのを防ぐために壁板の下がスカート状に広がるのを学んだ。

次回のためにもう少し勉強します…。

防水のための板金処理

トラス構造の屋根

これは…日本風にした新めの建物?

花蓮市内にある住宅は、日本時代ほぼそのままのものや、増築されているもの、日本風にしてるだけのもの、戦後に国民党の兵隊家族が住んでいた眷村など、よく見たらこんなにあったのかというものだった。

介壽眷村

介壽眷村は元々1941年に建てられた花蓮港市営住宅で、全部で27 棟 54 戶。戦後の1949年に中国から来た国民党軍の家族がやってきて眷村を形成した。

介壽眷村をみるとジブリの「ほたるの墓」を連想するとUtayさん。そういうところは普通の若者らしい。

この宿舎群は基本的に一つの家が2世帯に分けられている。

屋根の右半分側はまだ住民がいて、屋根が塗装されているのが分かる。

こちらの眷村は補修の手が入っておらず、かつての様子のままがほぼ保たれている。これだけ大きな規模で、そのままというのはもう台湾でもかなり珍しい。私の知る限りはここだけ。

ずっとこのまま残ってほしいけど…。

無数にある、知られてない日式家屋たち

日式建築が本当にたくさんあって、私は車の自分側の窓から見えるたびに渡邉さんにあそこにもありますよと伝えていたが、ありすぎて追いつかなくなり、いくつも素通りせざるを得なかった。

屋根(赤い方)がこんなふうに曲がってるのは珍しいんだって!

誰も住まなくなった廃屋だけでなく、住んでいる人のいる現役家屋もちらほら。
いつか機会があったら中に入ってみたい!!

花蓮市街地は少し高低差があり、こんな景色が見れた。

ちょっと横道に入ったところに、日式建築が続く通りが!

おそらく民間所有のところで、カフェになったり、修復作業中のところがあった。

花蓮縣縣定古蹟檢察長宿舍(検察長宿舎)

床下の通気口にも装飾が施されている。

こういうちょっとしたところに施された装飾で、その家のグレード、住人の役職の高さが見えてくる。

富世遺址

霧がかりわかりにくいが、急峻な山がすぐ後ろにある。これは落石が怖い。

私にはボロボロに見えても、渡邉さんに言わせると改修すれば活用できるというのが驚き。

花蓮港山林事務所近く

一般の家でも、高い塀に囲まれた家がある。
戦後の白色テロの時代に、家を国民党兵士に覗かれるのが嫌でだんだん高くなっていったという話をどこかで読んだ。ここの風景もそんな風にして作られたのだろうか。

補修待ちの家屋群

コンクリートの上に建つ木造家屋が気になる。

歴史建築として登録されて、改修待ちの建物も多かった。
改修待ちの建物は塀で囲まれていて、中を見ることが難しい。

花蓮縣臺灣原住民族文化館

花蓮縣臺灣原住民族文化館の外に展示してあるブヌン族の伝統家屋

外は日差しが強くて暑いけど、家の中は少しひんやりしている。分厚い石壁のおかげだろう。

赤い部分は拜拜(お祈り)の跡。

原住民も家を建てる際に祖霊に向けてお祈りをする。お供えするのは、酒・タバコ・檳榔。

ランチは新城の「山下村」へ

ランチは新城集落の「山下村」というタロコ族のカフェ。

2024年4月3日の花蓮地震の際、タロコ峡谷の近くにあった山月村というリゾート地には巨石が降り、運営不可能になった。

そこのオーナー(漢人)が山の下にある新城で出したお店がこの「山下村」なのである。

ダドゥクンという原住民の人たちが食べる野菜を使ったスープ、山茼蒿のおひたし、馬告という山胡椒など珍しいものばかり。こちらの料理も美味しかった!

夕ご飯はアミ族の創作料理

1日目の夜はUtayさんの親戚の食堂でアミ族の創作料理をいただく。
大きな葉っぱの上に乗せられた料理はどれもオーナーのズイスさんお手製のものだ。どれも美味しかった!

ズイスさんは父と祖母から日本語を学び、自分でも勉強して日本で働いた経験もある。

「忘れてしまった」というけれど、努力して身につけた日本語は今も流暢だった。

隣で8人くらいのおじちゃんたちがおしゃべりをしている。
アミ族だけでなく、他の部族の人もいるそうで、共通語である台湾華語を使って話をしていた。たまにアミ語が混ざる。

「セデック・バレ」と聞こえた。「「セデック・バレ」とは真の人間の意味だ。だからお前たち(おじちゃんたちアミ族)は人間ではない」と軽口を叩いていたという。

また、こちらが食事をしていると話しかけてきたほろ酔い加減のおじちゃんは、ズイスさんの夫だった。

鉄工を仕事にする彼が建てたという櫓(やぐら)に招待される。

一人で過ごしたい時にここに登るという。

そしてアミ族の「出陣の歌」を歌ってくれた。
アミ族は首狩りの習慣はなかったとされるが、異なる部族間で殺し合う戦いはあったそう

おじちゃんが歌い出す。
そして即興で合いの手が櫓の下で酒盛りをしているおっちゃんたちから入れられる。普段から歌い慣れているからこそ、即座に合いの手を入れられるのだ。

この曲は頭目しか歌えないんだ、とおじちゃん。
戦争に向かう部族の仲間を鼓舞しないといけないから、覇気のある声じゃないといけないんだ、と。

和気藹々としたおっちゃんたちは草野球のチームメンバーだそうだ。
明日8時から試合だという。
Utayさんが、アミ族は争いは好まずみんなで楽しく過ごすのを大切にする人たちなんだよと教えてくれた。

頭目の歌声と合いの手が空に響いたの花蓮の夜だった。

 

2日目に続く

花蓮の原住民について

台湾で現在認定されている原住民は16部族ある。そのうち花蓮に住んでいるのは6部族。

阿美族(アミ族)、太魯閣族(タロコ族)、撒奇萊雅族(サキザヤ族)、噶瑪蘭族(クバラン族)、布農族(ブヌン族)、賽德克族(セデック族)。

Utayさんはクバラン族だと自己紹介してくれた。しかし彼にはシラヤ族、客家、カバラン族、アミ族の血が流れているという。

Utayさんの名前は祖父から受け継いだもの。必ず亡くなった人からもらう。何代にも渡って、名前が繰り返し使われることになる。料理を振る舞ってくれたズイスさんも祖母から受け継いだ名前だと教えてくれた。

Utayさんと渡邉さんの繋がり

台湾にある日式建築について知りたくて、たくさん書籍を買って読んでいた。
ある時Youtubeで尾道の空家再生に関わる建築士が実は台湾にも何度も訪れていることを知る。それが自分の買った書籍の著者である渡邉さんだったのだ。
そして自ら渡邉さんに連絡を取ったということだった。

 

【メモ情報】小米(あわ)
今回の旅では穀物の「あわ」がよく話題に上った。
あわは出草の首の口に入れて供えるもので、生きている人が食べるものではないそう。

 

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